人間は欲望の存在であり、またラカンによれば欲望とは他者の欲望であり、ドゥルーズ=ガタリによればそれは欲望機械という生産装置であり、資本主義は欲望の構造と言われるがしかし既に資本主義以前に人間存在間の関係は欲望関係である。
欲望とは、他者の欲望である―これを、単に個々の主体が異質性を欲望する欲望機械である、というだけでなく、他者からの欲望でもあることで、欲望のネットワークが常に形成され、そのことで社会的な加速する生産が行われているとすれば。
他者は、何を私に欲望するのであろう、他者とは異質性のことであるが、もちろん私から常に異質性を引き出そうとしているのである。このことが社会の構成員全員に適用されるとき、運動は全体的になり、個人を超えた何かが常に生み出され続け、私は執着されるし、執着もする。たとえ家の外を何十年も出ないような引きこもりであったとしても、そのようなものとして彼は執着される。彼は一般的には異質性を引き出すことを欲望されるが、かえって自動―生産される諸規定によって規定されるのであり、しかもこの自動―機械の全体は、異質性を要求・吸収しつつ常に規定を生産し続けるから、彼を一度規定したからといって満足することは永遠にない。しかも彼という個人性、特異性に関心がない。
ところで、仏教の教えるところによると、苦しみは欲望、執着から生じる。
しかし執着しない、欲望しない、というのは現実的ではない。
だから、執着しつつ執着しない、という態度は、実践的にも理論的にも、矛盾でないのであって、執着しないというのは、物事に執着しない、という態度でもあるが、より高次にはこの区別に執着している自分に無関心である、という観想的態度のことなのである。
しかし、さらにこの態度に執着しつつ、同時にそれに無関心である(=執着しない)、という無限後退はあたかもプラトン批判の典型的な第三人間論のような様相を呈しているが、しかし実践的にも理論的にすらも意味を持つ。
というのは、この無限後退を続けているうちに、確実なのは、最初の物事への執着から無限に解脱している、ということだからである。
この態度は、「執着か、無執着か」といった二律背反にまで純化されるので、その地点において、既に物事への執着からの解脱は、達せられている。
(織田理史)
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