【若気の至り】と赤子―表現者の在り方について
- Masafumi Rio Oda
- 2020年7月27日
- 読了時間: 1分
単純な年齢では、若者とは言えなくなってきた。しかし、若いということが、常に挑戦し、既成の制度に立ち向かい続けることを意味するのならば。評論家の構成する言説空間を破壊しなければならない。彼らの饒舌なエクリチュールでは追い付けない、無限の速度で運動し続けなければならない。彼らの言葉を「絶する」、ということでなければならない。彼らを感動させ、思考の再編を迫り、そのような評論家をアーティスト側が再構成しなければならない。 こう言うことが、若気の至りと形容されようと、それは歓迎されるべきことだ。誰であれ、制度に絡め取られまいという強い態度であれば、若者だ。 しかし、こう語ること、すなわち評論家を評論することは、「若者」に留まる。表現者としては、言語を獲得する以前の赤子、行為が常に表現でしかあり得ない赤子にならねばならない。 私の知る限り、この最もラジカルな意味で、若者であり、赤子でもあるのは、御年70を超えた池田一だ。
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